ロシア艦隊「ディアナ号」漂流絵図 |
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ディアナ号の下田来航までの航海記録
嘉永6年.06.5(1853.7.10sun) 香港を出港
嘉永6年.06.18(1853.7.23sat) 軍艦パルラダ号が香港に到着
嘉永6年(1853.7) ロシア使節 極東艦隊司令長官プチャーチン、長崎来航。
嘉永6年.07.18(1853.8.22mon) ロシア極東艦隊が開港をもとめ長崎に入港
嘉永6年.08.17(1853.9.19mon) 長崎奉行大沢豊後守が立山役所で会見
嘉永6年.12.5(1854.1.3tue) ロシア艦隊が突然長崎に再来
嘉永7年.01.8(1854.2.5sun) 長崎を退去する
嘉永7年.08.30(1854.10.21sat) 軍艦ディアナ号が箱館に入る
嘉永7年.09.19(1854.11.9thu) 軍艦ディアナ号が大坂の安治川口沖へ碇泊
嘉永7年.09.20(1854.11.10fri) 大坂より下田に入港
嘉永7年.10.14(1854.12.3sun) 軍艦ディアナ号が下田に入港する。
嘉永7年(1854.10.15) プチャーチン"露国使節?、伊豆下田へ来航
嘉永7年(1854.12.12)修理のため、伊豆下田から伊豆戸田村へ回航中のディアナ号沈没 |
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【嘉永大地震の津波が下田を襲う】
1.安政元(嘉永7)年(1854)11月4日、東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州なだ沖。マグニチュード8.4。死者約2千〜3千人。下田も壊滅的な打撃を受けている。
(地震の23日後に嘉永から安政に変わった)
この津波で、ディアナ号の乗組員1人が死亡、2人が負傷したほか、ディアナ号も船体構成の基礎となる竜骨の一部がもぎとられ、舵(かじ)を失ってしまった。また、艦の負担を軽くするため、積載していた52門の大砲を陸に降ろすことを余儀なくされた。 |
最新式「ディアナ号」は、長さ52メートル、
2,000トン、大砲52門を搭載、乗員500名
津波被害により艦長・プチャーチンはディアナ号の修理港の貸与を幕府に願い出た。
幕府は下田、長津呂、網代、稲取といった修理地を提案したが、プチャーチンはこれを受け入れなかった。 下田は日本の数少ない開港地でアメリカの来航多く、敵対国イギリス・フランスの艦船が入港する可能性が高かったからだ。
結局、被災から13日後の17日、「伊豆国内であれば応接掛の独自の許可で修理地の臨機使用を認める」という許可を川路聖謨が与えた。
日露から調査員を派遣し合ってディアナ号の修理地を船で探した結果、伊豆西岸の駿河湾を北上して見つかった戸田湊が選定された。 |
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【ディアナ号、富士で座礁】
応急修理と準備や風待ちを過ごして1月13日出帆、応急修理した舵と小規模の帆装で、防水布を巻いた船体を引きずりながら石廊崎をかわして駿河湾に進入、戸田を目指す。大型和船1艘が援護した。
ところが以後、南風が強まり、遡ろうとしてもただ流されるばかり。ついに富士の宮嶋村三四軒屋浜の沖合に座礁してしまった。
この時、地元の村民は総出で、打ち寄せる荒波の中、乗員や積み荷の上陸を助け、本船と浜との間に張ったライフラインをボートが往復して、乗り組み全員と相当の資材が陸上に確保された。
土肥でアンカー打って船を止めようとしたんだが、アンカーが利かなかったらしい。 |
【ディアナ号沼津沖で沈没】
ディアナ号に乗船していた司祭ワシーリイ・マホフの「ディアナ号航海誌」によれば、
事実、私たちは見た。だが、この目が信じられぬほどの出来事だった。 私たちの運命を見守るべく、早朝から1000人もの日本の男女が押し寄せてきたのである。彼らは奇特にも束になって浜辺を走り回り、何やら気遣っているようであった。つまり、私たちのカッターや無鉄砲な救助隊員のことを心配していたのだ! 日本人たちは、綱に体を結び付けて身構えていた。そして、カッターが岸へ着くやいなやそれを捉え、潮の引く勢いで沖へ奪われぬように、しっかりと支えてくれたのだ!善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! |
富士・原・我入道・三津の小海の漁師を頭に、百数十艘隻の伝馬船を集め戸田村へと曳き始めたのだが、そこにまた嵐が来て、もやい綱を切り離されたディアナ号は千本浜の沖あたりに沈む。昭和60年代に富士市が沈没状態を調査したが正確な沈没地点は判らない。 |
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本善寺(近くに長屋四棟を新築)
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ディアナ号は駿河湾の藻屑と消えたのだが、500人の水兵たちは伝馬船に乗り移って命を救われる。
そのまま戸田まで回送する事になったのだが、乗組員たちは「もう船はまっぴらだ」と断り、徒歩で千本松原を歩いて戸田まで向かう。
戸田には500人のロシア兵を宿泊させるための設備が整っていたので、とりあえずそこに宿泊させようというわけだ。
戸田村においては、その準備を進めました。プチャーチンや士官の宿舎として宝泉寺(ほうせんじ)や本善寺が充てられました。その他の乗組員には、本善寺の近くに長屋四棟を新築し、そこに住まわせるようにしました。ここで、帰国までのおよそ半年にわたるプチャーチンや乗組員たちの生活が始まったのです。
戸田村は、住民約3000人に加え、ロシア人およそ500人、幕府の役人、さらに、造船のための大工や人夫などを入れると膨大な人数になり、混雑を極めたといわれます。
戸田村の警備も厳重に行われ、村内字入浜(いりはま)、字小山田、修善寺越え、真城(さなぎ)越え、小土肥(おどい)越え、井田(いた)越えの六か所へ見張りの番所を設置し、外部からの侵入やロシア人の逃亡、日本人との交際等を取り締まりました。『下田日記』には、「戸田という所へ、異人五百人を引寄せ候積りに成る。戸田ならば、二十町より外へ出ることならぬ要害の地故、よろし」と記述され、戸田が警護上ふさわしいことが分かります。また、「三日のうちに五百人の居所、其外食物、酒、タバコ等にいたる迄差支無き候にいたしたり」とも記述されて、宿舎や食料の手配などに万全の準備が為されていたことが分かります。 |
宝泉寺
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仮奉行所跡 (勝呂弥三兵衛宅)
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【日本初の本格的洋式帆船・ヘダ号】
ロシア艦隊乗組員から代船建造の建議が起こる。外洋走行可能な小型帆走艇をこの地で急造して、ロシア本国に救援を求めに走ろう。設計と製作指導は乗員の能力に頼れる。建造体制の確保と人員資材の亭給を日本側にお願いしたい。設計図は日本に置いていく。経費は後日ロシア国が支払う。 日本側は、幕府を先頭にこの提案に載った。洋式の造船技術導入のために、願ってもない話だ。この地に近い韮山代官・江川太郎左右衛門は、この頃、製鉄用の反射炉の建設を試みたりしてきている技術官僚で、建造取締役に任ぜられた。
代艦の設計は、ディアナ号の所持品にあったスクーナー・オープイト号の設計図をもとに、ロシアの技術士官・モジャイスキー海軍大尉と日本造船世話掛(船大工の棟りょう)によって行われた。2本マストの60人乗りの木造帆船で、全長約25メートル、幅約7メートル、80から100トンほどの船となったという。材料の木材は沼津千本松原から伐採した松材が用いられた。鋼板、鉄板、釘、鋲などは幕府を通じて調達された。 代艦は80日余りで完成し、安政2年3月10日に進水式が行われた。プチャーチンは、戸田の住民らに感謝を込めて、新造船を「ヘダ号」と名付けた。 |
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【君澤型帆船】
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英龍がこのとき期待したのは、洋式船建造の技術が日本の船大工に伝わることであった。一隻の洋式帆船をロシア人の指導のもとで日本人が造れば、その技術は確固として国内に根づくのである。プチャーチンも英龍のこの提案に同意した。
このとき建造されたのは二本マストのスクーナー型帆船で、幕府がのどから手が出るほど欲しかった洋式軍艦への転用には不向きだったが、高速を生かした貨物の輸送には適していた。このため「君澤型帆船」と名付けられた同型船がその後何隻も建造され、長く活躍した。 |
上田寅吉は戸田村の7人の船大工の中で若くて創造力もある最も有能な船大工の一人です、彼は既に石川島造船で旭日丸という船を造っていましたが、この船はまともな洋式船ではなく、故郷戸田村でロシア人の帰る船を造るとの事で、戸田村に帰り戸田号の造船におおいに活躍しました、船大工の中でも特に優秀な為に、彼は長崎の海軍伝習所の一期生として行きました、この伝習所は平民は入れまれませんが、彼は特に洋式造船の技術が優れており、お給金を貰い後には苗字帯刀を許されました。
日本に帰国した時に間もなく明治維新となり、榎本と共に函館の五稜郭の戦いに敗れ捕虜になりましたが、明治三年釈放されて、横須賀の海軍工廠の初代の工場長に成りました。また長崎の三菱造船所など日本の主な造船所を造りました。
榎本との関係は深く後の緒明さんのお台場造船所などにも力添えをしたそうです。
寅吉は明治22年に亡くなりましたが、後のロシアのバルチック艦隊をやぶった日本の4隻の艦船を設計しました。 |
【上田寅吉】
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【緒明菊三郎】
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緒明菊三郎氏は、戸田号造船時には10才だったので、船大工の父親の手元で雑役をしながら洋式造船の技術を学び、後に江戸に出て隅田川で一銭蒸気船を始めて財を成し、東京のお台場で緒明造船所を造り、日清戦争、日露戦争の頃は日本の造船、海運王にまで成った人です。
なお、お台場の土地を使用出来たのは、同じ戸田村の出身の船大工、上田寅吉の縁で榎本武揚が世話をした様です。
緒明家は静岡銀行の大株主で何代か頭取を勤めた家柄で、日本で一番堅実な地方銀行は静岡銀行です。
横須賀に「緒明山」という公園があるんだが、そこが緒明菊三郎の持っていた土地だ。
また、三島の駅前に楽寿園という広大な公園があるのだが、あれは緒明さんが朝鮮の皇族から買い取ったもの。
今でも子孫が楽寿園のとなりに住んでいる。 |
長崎の海軍伝習所の一期生として勝海舟が居ました。一期生は咸臨丸により、日本人だけで太平洋を横断しましたが、武士階級の人達は殆どやくにはたたず、特に海舟などは船酔いのせいで、船底で寝ていたそうです。
万が一、航海途中で船が壊れたら誰が直すか、そのため河津出身の鈴木長吉と伊東出身の肥田浜五郎(オランダから日本で最初に蒸気機関を輸入しました)ら船大工が参加しました。
二期生には榎本武楊が居ます。武楊達は始めアメリカに行きたかったのですが、当時アメリカは南北戦争のため混乱しているのでオランダに行きました。オランダでは当時幕府が発注していた、後の開陽丸の建造に携わりました。
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【勝 海舟】
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沼津戸田案内図 |
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