農兵節と三島女郎衆

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農兵節の歌詞を読む

富士の白雪ゃノーエ

(ふじのしらゆきゃのーえ)と唄う
誰でも知っている富士の白雪をつかみとして冒頭に置き、水と三島への序曲へつないで行く。

白雪ゃ朝日でとける

とけて流れてノーエ

とけてサイサイ

流れて三島にそそぐ
富士の白雪がとけて流れて三島にそそぐと、農兵が生誕した三島にワープさせている。

三島女郎衆はノーエ
「三島女郎衆」の起源として、天正18年(1590)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が小田原北条氏攻撃に際し、将士の休養のために女たちを与え慰安(いあん)したということが伝えられています。秀吉の命により三島へ集められた女たちは、かなり遠く京、大阪付近の女達もいたと伝えられている。
その後、この女たちは「三島女郎衆」と呼ばれ、農兵節にも歌われて東海道で有名になっています。

女郎衆は御化粧がながい
化粧がながいの一言で、三島女郎衆の置かれた辛い女の心情を連想させている。
化粧がながいの現実的理由は、お客が待つ間の酒や肴(さかな)に金を落とさせる店側のそろばん勘定が見て取れる。

御化粧ながけりゃノーエ

御化粧サイサイ

ながけりゃ御客がおこる

御客おこればノーエ
御客がこまるとしている歌詞もあるが、おこるは御客上位、こまるは女郎衆上位となる。

御客おこれば石の地蔵さん
三島の言成地蔵尊

江戸時代初期、大名行列の前を横切った小娘を、無礼として手打ちとされた最後の言葉「命を助けていただければ言い成りに奉公いたします」との言葉をとって言成地蔵尊として
三島に祀られている。
…弱い立場の三島女郎衆と重ねて身分制度の不条理を歌に込めたとする説もある。
伊豆の国市寺家「願成就院」の地蔵尊
 (北条政子地蔵とも呼ばれている)
・・・農兵節は、農兵制度への応援歌とするならば、その推進役の江川太郎左衛門が歌詞を見ない訳がない。「御客おこれば石の地蔵さん」の一句を観じて言成地蔵尊を思い馳せたかも知れないが、地蔵崇拝の根底にある身分制度を超越した庶民救済の施業に対し、農兵を発案した彼であれば、彼が若かりし頃直視したに違いない韮山の願成就院の政子地蔵が脳裏に走ったことに違いない。
・・・同院では運慶真作の阿弥陀如来像が安置され注目されている。


石の地蔵さんはノーエ

石のサイサイ

地蔵さんは頭が丸い
坦庵公の真摯な国防政策をなかなか聞き入れない江戸幕府の石頭と違って、石の地蔵さんの頭はまるい

頭丸けりゃノーエ

頭サイサイ

丸けりゃからすが止る
仏教と烏(カラス)と来れば、烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)となる。
人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては明王の中で特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる。
韮山代官管轄下では伊豆市湯ヶ島の明徳寺(みょうとくじ)に東司(便所)の守護神とされる「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)」が祀られている。【注】上記写真は別の寺の仏像

からすとまればノーエ

からすサイサイ

とまれば娘島田

娘島田はノーエ

娘サイサイ

島田は情けでとける

これまで、三島に纏わる語句を連ねて来たが、唐突に娘島田が飛び出し「なぜなんだ」と疑問に思った。作者の彼女が島田の出身だったのか?色々考えたが意味不明。

農兵節は富士の白雪→とける→三島にそそぐ→三島女郎衆→お化粧がながい→御客がおこる→おこれば石の地蔵さん→地蔵さんは頭がまるい→まるけりゃ烏がとまる→とまれば娘島田→島田は情けでとける→とけてながれてノーエとつながり、まるで尻取りのように憶えやすく水の流れのように輪廻させている。

「溶けて流れる」をキーワードとして悠久なる大自然と対比して社会の影・三島女郎衆に代表させて俗世の諸行無常を歌い流す鎮魂歌となっている。

さて、なぜ娘島田なのか・・・その答えを私なりに発見した。あくまで私見であるので鵜呑みにしないでいただきたい。

1.やぐら唄に・・・
富士の(峰に)白雪 朝日で溶ける 娘島田は 寝て(句で)溶ける

2.地搗唄に・・・
〓ヤットコセー ヨーイヤナー
冨士の白雪ァ 朝日にとける 娘島田は 寝てとける
ヨーイトナーエ ハレハ アリャリャ ソリャ

富士の白雪→朝日でとける、娘島田は寝てとける、がピタリと符合する。

当時は著作権もレコードも無い時代。耳新しい曲に敏感で耳で聞いたら直ぐ覚え、得意になって人に聞かせて忽ち地方に伝聞されて行く。

頭に富士の白雪をかぶせ、最後に娘島田を置き、中に三島女郎衆・化粧・御客・石の地蔵・カラスを配置し「農兵節」を完成させたと推察した次第です。

また俳句や短歌の如く地唄にも定められた語句があり、知らないと野暮な野郎だぜと笑われる。富士の白雪と来れば、当時の人は娘島田とピンと来る。

加えて言葉遊びも絡め、カラス止まるから→泊まれば娘島田に変化させている。
ただし「寝て溶ける」は余りに無粋であり、情けでとけると品よくまとめている。



曲の方は下記のノーエ節にそっくりで元祖と言われていますが、問題は歌詞の方が私には興味がある。
圧倒的に下記の野毛山節と称されているものは、1から5までの歌詞の構成が尻取りのように丸く繋がっていないし使われている用語も異人館・赤いズボン・蒸気船・太い煙突・秋の演習・白黒二軍・鉄砲かついでと新しい用語が多用されているのが不思議だ。江川太郎左衛門はペルー来航以前に農兵を訓練し始めている。歌詞の内容と知名度は「農兵節」の方が群を抜いている。

『ノーエ節』 文久年間
(代官山節または野毛山節ともいわれる)

1. 代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から異人館をみれば
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンと二人でノーエ
ラシャメンサイサイ
抱えて 赤いズボン

2. 代官山からノーエ
代官山からノーエ
代官サイサイ
山から蒸気船をみれば
太い煙突ノーエ
黒い煙りがノーエ
黒いサイサイ
煙りが 横に出てる

3. 秋の演習はノーエ
秋の演習はノーエ
秋のサイサイ
演習は白黒二軍
白黒二軍はノーエ
白黒二軍はノーエ
白黒 サイサイ
二軍は 演習が終わる

4. 野毛の山からノーエ
野毛の山からノーエ
野毛のサイサイ
山から異人館を見れば
鉄砲かついでノーエ
鉄砲かついでノーエ
お鉄砲 サイサイ
かついで 小隊進め

 5. オッピキ ヒャラリコ ノーエ
オッピキ ヒャラリコ ノーエ
オッピキ サイサイ
ヒャラリコ 小隊進め
チーチー ガタガッテ ノーエ
チーチー ガタガッテ ノーエ
チーチーガ サイサイ
ガタガッテ 小隊進め

・・・歌詞が違うと「農兵節」とは全く違った感じとなり、二回以上は繰り返して歌いたくない人も多いと思えるし、歌詞を覚えたくない感じを受ける。


農兵節考察

江川太郎左衛門の家臣、柏木総蔵が長崎よりの土産として持ち帰ったという「ノーエ節」に歌詞を付けた「農兵節」は、
富士の白雪ゃノーエ富士の白雪ゃノーエ
富士のサイサイ白雪ゃ朝日でとける
で始まる、およそ後世の軍歌とは程遠い、長閑洒脱な内容である。
これに続く、
三島女郎衆はノーエ三島女郎衆はノーエ
三島サイサイ女郎衆はお化粧が長い
に至っては、教練の最中よりも、宴会や遊郭の中で歌われた方がふさわしいような内容である。

韮山代官所の膝元にあたる金谷村の農民の一部は、かねてから洋式の鉄砲などを用いた訓練を受けていた。

安政元年(1854)のペリー再来航の際、アメリカ側との交渉の一端を担った英龍は、交渉にあたって代官所の手代らと共に金谷村の農民からなる一隊を鉄砲隊として随伴しています。

それまで農民は身分制度に縛られ帯刀は許されなかった。それがお代官様から西欧式の鉄砲を渡され射撃訓練しろと言われたら、男子たるもの乱舞喝采したことだろう。

最先端の訓練で腕を磨き三島農兵隊の一員たる誇りを感じた彼らは武士以上の実力と革新性を自覚し、訓練に自ずから没頭した筈で、訓練は苦役では無かった筈だ。
その後、全国に農兵制度を採用する諸藩が続出するが、三島農兵の技量は他の追随を許さなかったと言われている。

大砲までも作ってしまう江川太郎左衛門の門下にいるだけでも大きな誇り、陣笠・陣羽織の装束を着装して行進するに至っては男子の本懐、学問や鉄砲に全く縁の無かった田舎の青年が、打って変わって自発的に学問や訓練に打ち込んだに違いない。

そんな革新的寵児に生まれ変わった青年達に相応しい行進曲は今まで聞いたことの無い曲で洒脱な歌詞が必要だった。やがて農兵節は歌謡曲の祖と言われることになる。

余談になるが、「気をつけ」・「前にならえ」・「右むけ右」・「回れ右」といった団体教練の掛け声も三島農兵訓練が起源とされ、平成の現代でも使われている。

韮山塾と農兵訓練生の弟子たちが大正時代に入り国軍上層部を席巻するに及び、大正8年野戦重砲兵第2連隊(銀杏並木東側)が、大正9年には同第3連隊(銀杏並木西側)がそれぞれ横須賀から三島に移転し景気・文化・血の交流にインパクトを与えている。


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