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建久(けんきゅう)6年(1195)源頼朝が奈良東大寺大仏供養の帰路、黄瀬川宿で領地の訴訟(そしょう)を聞き、この川を伊豆国と駿河国との国境に定めたことから、境川と名付けられたと言われています。

私は、駿河国(長泉町・清水町・裾野市)と伊豆国(三島市)との国境(行政境)の川状の蛇行に着目し、鎌倉時代の境川は、徳倉・幸原地区に架かる青木橋から現代の大場川と逆Y字に流れる境川が流れ、今も厳密に残されている行政境に沿って流れていたものと推察し下の図面を書きました。

学者さんに任せれば何年先になるか分りません。間違っていても早く地元の人に「あったかも知れない境川」を認識していただき、調査研究のきっかけとなればと分かり易く現代地図に残る国境に沿って青線を引いたものです。国境は古来より、立場の異なる国の役人がそれぞれ二重に検地して来たものであり、その正確さは侮れないものと思いますし、行政境沿いを再確認しつつ川の痕跡を探しだし写真に残すのも一興と考えています。敢えて申せば川の流れは変わっても元々の行政境は不動とされ、第一級の古典資料と謂えます。

青木橋から南に流れる川は、万治(まんじ)2年(1659)の大洪水のとき流路の移動が起こり、境川の水はすべて大場川に流れるようになり、青木橋以南の境川の水は涸れてしまったが、現代でも東レの北側や三島駅北口西方の行政境に川の面影が散見されるものの、東レの東に川が流れていたとの認識が地元の人間でも全く無いのだから、境川の痕跡と気が付く筈が無く目に止まらないのが当たり前だったと思います。

大正8年〜9年(1919〜1920)にかけ、現在のイチョウ並木の両側に野戦重砲兵第二連隊と同第三連隊が構築され、現在の東レ敷地は連隊の訓練場として使われていましたので、一般民間人の近寄れる場所では無かったことも境川の存在を幻とした一因として上げられます。およそ350年前から水が流れなくなった訳ですので、連隊が当地へ来た時には川の流れは枯れていた筈で、連隊により埋設されてしまった可能性もある。

平成23年(2011)現在、三軒家の伊豆箱根鉄道駿豆(すんず)線の西側から細々とした流れがありますが、現在のJR東海道並びにJR新幹線工事にて寸断され地上から見えなくなったため、駿豆線西側の川はどこから流れて来るのだという疑問も無く、ただ清住町の境川に繋がっている細い川と軽く認識されるにとどまり、ただし千貫樋辺りに行くと水量が増しかなり川らしくなっています。

清住町西側の低地の三又(みつまた)、鏡池や丸池(清水町)など各所の湧水を集めて大きな流れとなって南に流れ、国道1号をくぐって玉川、平田、松本の西側の河岸段丘内を東や西への自由蛇行(だこう)をくり返し、長伏地先で狩野川へ合流しています。
三島市平田・長伏辺りになると行政境(旧境川)は現在の流路より大きく蛇行していることが分かります。





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