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江川太郎左衛門と江戸お台場

【お台場】・・・江戸城を背後に配し最初第一〜第三までお台場を築き、次にその参列の間の後方に第四〜第六のお台場を築き、陸側に御殿山下御砲台場を築いている。
東南アジアで国土を侵略させていないのは唯一日本だけである。結果的にこのお台場から大砲が発射されたことは無いが、戦わず制するのが武人の極意と謂える。
海上で不沈艦とも表現し得るお台場を短期間で構築し大砲を造れる能力技術力を有する国と見られるか見られないかは大きな違い。
【お台場と大砲基台跡】
嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求を迫る。これに脅威を感じた勘定奉行の川路聖謨らが動き、幕府は江戸の直接防衛のために海防の建議書を提出した伊豆韮山代官の江川太郎左衛門英龍に命じて、洋式の海上砲台を建設させた。

英龍の凄さは、神奈川から千葉までの海岸を視察し、オランダ語に翻訳された西洋築城書を参考に品川沖の水深を測量させ、黒船の喫水線を配慮した上で等間隔に砲台を設ける方向で設計、当初の砲台形状は精緻なものだったが完成が急がれていた事、工事の難易度や工費を考慮して単純な形状へ融通無碍に変化させ、木の杭を浅瀬に打ち込み(杭打ち船を使用したか否か不明)杭を周囲に広げて行き、杭と杭の間を横木を渡し井桁状に組立、砂利を投入し台場の基礎としている。関東大震災にて石積の一部が壊れたが、洋上で不思議と壊れないものと感心させられる。

周囲の石積には伊豆石を使い中に埋め立てに用いる土は高輪の八ツ山や御殿山を切り崩して調達した。ペルーが何時来日するか予測不能のため、まず三つのお台場を竣工させ大砲配備を進めると同時に、その後の工事を進め現実に即して臨機応変の采配を振るっている。黒船は水深のあるところしか通れない訳で、おのずから射程や角度が予測できる。攻撃されても沈むことがない。

品川沖に11基の台場を一定の間隔で築造する計画であった。工事は急ピッチで進められ、およそ8ヶ月の工期で1854年にペリーが2度目の来航をするまでに砲台の一部は完成し、品川台場(品海砲台)と呼ばれた。お台場という呼び方は、幕府に敬意を払って台場に御をつけ、御台場と称したことが由来である 。

ペリー艦隊は品川沖まで来たが、この砲台のおかげで江戸城近くに黒船を停泊させることなく黒船は横浜まで引き返しペリーが上陸することになった。江戸城に黒船の大砲を向けられた状態で、交渉に入る場合とそうでない場合の違いは歴然としている。
完成した台場の防衛は江戸湾の海防を担当していた譜代大名の川越藩(第一台場)、会津藩(第二台場)、忍藩(第三台場)の3藩が担った。

この砲台は十字砲火に対応しており、敵船を正面から砲撃するだけではなく、側面からも攻撃を加えることで敵船の損傷を激しくすることを狙ったものである。2度目の黒船来襲に対し、幕府はこの品川台場建設を急がせ、佐賀藩で作らせた洋式砲を据えたが、結局この砲台は一度も火を噴くことなく開国することとなった。
【大場の久八】
幕末維新期の伊豆の侠客。本名森久治郎。東海一の親分として勢力は駿豆相武の国におよび,現役中は清水次郎長も頭が上がらなかったといわれる。
嘉永6(1853)年黒船来航に際して江川太郎左衛門が品川沖にお台場を造営したとき,数千人の人夫を指揮して功績があった。

江川は江戸の屋敷に久八を招き,労に報いるため韮山代官支配地の御用を命じようとしたが,「骨が舎利になっても二足の草鞋ははかぬ。渡世人は堅気の下につく者だ」と断ったという。
維新後は博徒の足を洗って帰農し,下田街道の改修や村の小学校建設に貢献した。
 6尺2寸の大男で右目が斜視。強力(ごうりき)で健脚の持ち主とされ三島と江戸を1日で往復して平気な顔をして畑仕事をしていたという。
江川太郎左衛門は上流農家の男子を農兵の候補とした。
大場の久八は、当時子沢山で口減らしに懸命な水飲み百姓の二男以下を駆り出し、今で謂うところの派遣社員を創出している。
江川太郎左衛門が甲府の天野海蔵を指名すると、海蔵は大場の久八に白羽の矢を立てた。
久八の手下の動きは素早い。白米と温泉を餌に畑毛温泉に働き盛りの若い衆を1000人掻き集め3泊させた後、江戸への箱根越えとなっている。
お台場の現場では大きな木樽に穴を開け、小銭を中に入れ、仕事が終わる都度、人足に手を突っ込めさせ駄賃とする。
これが人足達の評判を呼ぶとともに、新参者を牽き付け、脱落者や長期欠勤者が減り、工事はとんとん拍子に進んで行く。
久八は俗世の裏街道を知り尽くすヤクザだが、出稼ぎの走りとなる実務家でもあった。
【大場の久八の墓】
函南町間宮193 広渡寺(こうどうじ)

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