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農兵節と三島女郎衆

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韮山反射炉と農兵

江川太郎左衛門が作った韮山の反射炉、
源頼朝が流されていた韮山の蛭が小島から南東約1.
6km離れた山里に西洋式大砲を造るための反射炉
が建造されました。
当時の韮山は政治経済を管轄していたとは言え、伊
豆の村落の中に忽然と西洋式の反射炉の建設が進
み超一級の学塾機関が伊豆に出現した訳で日本中
の青年武士の耳目を牽くところとなりました。
そして優秀な全国の下級武士において韮山で学ぶと
いうことは、現代で言えば東京大学合格以上の誉れ
であり、全国より韮山詣での現象が惹き起こされまし
た。

韮山代官江川太郎左衛門(坦庵公)がしきり
に幕府に海防の急務を説いたことは、史実
に明らかである。
そして坦庵が管下の青年に洋式農兵調練を
実施したのは嘉永三年正月のことであった。
このことは幕府の正式許可ではなく試案であ
ったが、旧式兵制から蘭式の新式兵制にう
つったのであるから、諸藩の兵制改革論者
は先を争って見学に韮山・三島詣でとなり、こ
のため三島の宿役人はその応接に暇がない
程であった。 
訓練場は現在の三島市役所の位置、韮山代
官所から鉄砲役人が出張して指導に当たり、
ついにここに我国最初の民兵が産声を上げ
たのである。
坦庵公は、鉄砲射撃訓練・農兵用陣笠・兵糧
用パン・反射炉・大砲・冷却用水などを考案、
後には江戸のお台場建設などに取り組み日
本に押し寄せる黒船に互角に対処すべき諸
策を講じつつ、下田外交において絢爛錦織
装束にて交渉に応ずるなど八面六臂の功績
を残している。
韮山高校に「忍」の一文字を残し、三島には
「農兵節」を残している。
【斎藤弥九郎と江川太郎左衛門】
江川太郎左衛門は、後に紳道無念流達人で中興の祖と呼ばれる江川の家臣・斉藤弥九郎と共に平八郎残党の情報収集と大飢饉で壊滅寸前の幕府直轄領調査を兼ね、刀剣の行商を装って甲斐・武蔵・相模三国を隠密裏に巡察・探索したという。
むろん江川太郎左衛門も神道無念流の使い手であり、本質は武士なのである。
この「神道無念流」は福井兵右衛門嘉平という剣術家が天明年間(1781〜88)に「飯縄大明神」から伝授された剣法とされており、江川太郎左衛門の師である画家で蘭学者の渡辺崋山、水戸藩士・藤田東湖、武田耕雲斎、長州藩士・高杉晋作(柳生新陰流でも有名)、神道無念流免許皆伝を受けた桂小五郎(木戸孝允)、新撰組の永倉新八、芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助ら敵味方とり混ぜた錚々たる人物が名を連ねている。
坦庵公の大砲・戦術探究心や情熱の真骨頂は古来より伝わる武術鍛錬に有った。

【韮山笠】
坦庵公が考案した農兵用陣笠
これをモチーフとして、三島農兵節を踊る
女性の笠に転用され今日に及んでいる。
農兵は代官江川坦庵公が創案したもので、上層農
民の子弟を集め洋式調練を実施したものです。武士
以外の人々に軍事調練を施すことは当時としては画
期的なことで、全国から見学者がひきもきらなかった
といわれている。

【パン祖のパン】
坦庵公が考案した兵糧用パン。
韮山代官跡にパン祖と記された石碑が建てられてい
る。
現在、韮山の有志がパン祖のパンを復元しようと努
め、平成23年6月三島市主催で行われた食育フェア
2011で開催された韮山ブースでも復元パンが提供さ
れ、試食させていただいたが、味は淡泊・・・パン祖
のパンという味あいがして、イチゴやブルーベリーと
マッチするのではと思えた。

【農兵】
外国文化と進歩的発想に深い理解と研究を怠らなか
った太郎左衛門は、長崎伝習から帰った家臣柏木総
蔵から珍しい音律を聴いたのである。
そして西欧風な豊かなリズムは忽ち太郎左衛門の心
をとらえ、青年と歌… 調練の名案が頭に浮かんだ。
そして若い農兵達の行進歩調に合って、この行進曲
は新式銃を担いだ青年の人気に投じたのである。
 
文久三年、坦庵の子英武の時代、幕府は江川氏の
農兵調練の実益を認めて、ここに漸く制度として法令
を定め、韮山代官支配地である武州八王子と相州藤
沢の二ヶ所に調練場を新設し、大いに農兵の調練に
当った。
 
この故事にあやかり、昭和初期に東海道筋で流行っ
ていたノーエ節を元に平井源太郎により農兵節が作
られた。
三島市役所敷地の北東の隅に「農兵調練場跡」の碑
が建っている

【大砲】
韮山の反射炉で製造された大砲。江戸のお台場に
乗せ、黒船に対峙牽制しようと坦庵公は真剣に考え
ていた。
これに加え、坦庵公は新式銃に熟練する農兵を教練
しペリー来航に備えようとしていたのである。
ペリー戦艦はおろか、後の薩長連合との戦いすら敗
北する江戸幕府の戦力の脆弱さを坦庵公は既に見
通していたかもしれない。江戸幕府の旧態依然の体
制に対し、もう少し頭を丸くしたらいかがと「石の地蔵
は頭が丸い」と揶揄したのかも知れない。

【反射炉の見どころ】
韮山の反射炉は青銅製の大砲製造を目指して造られたものではない。青銅は加工が楽だが原材料が高
く、英龍は鋳鉄製大砲を目指した。
鋳鉄には高温(1700度)に耐えられるレンガが必要であり、太郎左衛門英龍は地元管轄下伊豆河津梨本(河
津七滝付近)の土に着目し使ったところが凄い。梨本は耐火レンガの生産地として明治時代に活躍すること
になる。

英龍が創ろうとした大砲は穴の無いムクの鋳鉄製、後で穴をくり抜く製法である。そのため水車によりムク
の鋳鉄大砲を回転させ、砲身に穴を開ける工法だ。
反射炉の立地には水勢のある川を要した。そして強力な水車の設計を要した。水車は4t内外のムクの大砲
を安定して回転させるものでなくてはならない。
現在、水車は残っていないが、反射炉の南側に回っている水車と何か関連性ないし影響は有るのか無いか
気になるところである。

次に考えなければならないのは鋳鉄を掘削する刃物と刃物固定治具(円柱金具)である。
現代のハイスや超硬バイトの無い時代、どのような刃物を使ったものか知りたい。
そして大問題は、削った穴の直径をどうやって測るかである。丸い砲弾を通す訳だから寸分の狂いも許され
ない。そのための計測機器の開発も苦心したに違いない。
工程も、粗挽き工程、中挽き工程、仕上げ工程と分業させ工期縮小に工夫している。

温度上昇のために燃料は石炭からコークス乾留へのチャレンジ、熱を反射させる炉内のレンガカーブ面の
試行、煙突への吸い込み効果が上がる隙間幅の試行、鋳込み時間の正確な計測法(線香)、鞴の効果の試
行、鋳鉄素材の産地選定のための試行など山積する問題を同時並行して解決していく忍耐を続けなけれ
ばならない。
これら全てを英龍個人が創出したとは謂わないが、優秀な門人を束ね指導し大砲工場を構築し、経済管理
全般、資材調達(主に沼津港)など精力的に活躍している。

これに加え、お台場の建設、ディアナ号の救援など命じられた訳で、命を落とされたことも無理からぬことと
残念に思われる。

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