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農兵節と三島女郎衆

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 大岡村鳥瞰全図(大正14,年)が古くて痛みが酷く見難いので、多少手を入れ分かり易くした絵図といたしました。
この図は大岡村の農業関係者が描いたものかどうか分りませんが、鮎壺の上流に造られた牧堰(まきせき)・門池
(かどいけ)から供給される農業用水が明瞭に図示されており、鉄道も書かれていることから古い道の位置関係が江
戸時代の絵図に比較すると格段に分かり易いと思いました。
 
加えて、大正14年には黄瀬川に架かる橋が大岡村に少なくとも3箇所有ったことが分り、長泉村・清水村・三島と黄
瀬川橋・寿橋・牧堰橋を結ぶ古い道を探る手がかりとなる絵図と思いました。寿橋が架橋されたのは明治34年。
大岡村は、黄瀬川の西岸に立地しますが、元来農業用水に恵まれた土地柄では無く畑作中心の小さな村(上石田
村・中石田村・下石田村・木瀬川村・北小林村・南小林村・高田村・日吉村)が、明治7年(1874年)に合併した時に荘
園だったと伝えられる大岡荘の名前をとって大岡村と命名されています。
 
いずれにせよ、牧堰と門池から供給される南北の農業用水は石田村の生命線であり畑作から米作への転換は収
入に大きな違いがあり下石田村から牧堰への通路の重要性が窺え、黄瀬川西岸沿いの細い道沿いに部落建物が
描かれており東西道路より南北道路が古くから形成されていたことが分ります。

 絵図で示されているように、大正時代は農業主体の田園風景であり、牧堰・門池より南側に農業用水が網羅さ
れ、西に向かう道は根方街道と旧東海道の2本であり黄瀬川村・下石田村から南北道路が牧堰に向かって2本伸び
ており、牧堰取水口と門池は重要な農業の生命線であり西への根方街道・北への足柄街道への通行路として活用
されていました。
 
私は、寿橋の存在を知らず、三島の人々あるいは西への旅人は一旦黄瀬川橋を渡り黄瀬川村から北上し根方街
道の門池・光長寺・浅間神社を目指したのではと類推していたのだが、寿橋が古くから架けられていた事実を当該
絵図で知らされた時、なるほど鎌倉古道に面した三島の国分寺跡や旅立ちの際には立ち寄りそうな近くの若宮神
社から寿橋までの古い道、寿橋から岡一色あるいは岡宮浅間神社への最短ルートが少しずつ見え始めて来まし
た。
 やはり、やるからには現在の図面に古い道を図示しなければならないと思いますが、作図面積の都合で時間が
かかるかも知れませんのでご理解いただきたくお願い申し上げます。
【牧堰まきせき】
 牧堰は、鮎壺の滝の300m上流において黄瀬川の水
を分水する堰で、市内北小林地内で取り入れ、ほぼ沼津
の狩野川以北、黄瀬川以西、東間門以東の農業用水とし
て使われた。

 慶長7年(1602)、岡宮東間門以東15ヵ村の組合につ
くられ、その後正保年中には門池を補助貯水池としなが
ら 397町歩の水田を潤した。

 牧堰の水の多寡は農民の生活、生命に直結するもので
あったから、干魃時には川下の本宿堰や大岡と沼津宿な
どの間で水争いが起き、順番に水を配る番水や夜通し水
路を見張る番小屋が建てられたりしたが、ときには流血
の惨事すら起こることもたびたびであったとのことです。
【門池】
黄瀬川を堰き上げた牧堰用水路を補助するために、
1645年(正保2年)、灌漑用のため池として竣成したもの
である。しかし同地には、それ以前にも上津池(かみつ
いけ)という池があったという文献もある。
1858年(安政5年)には洪水で池が埋没し、浚渫時に安
政島がつくられました。
大正期には、土砂の流入により灌漑の機能を果たさなく
なっていたが、1923年(大正12年)の関東大震災以降は
黄瀬川の水量が減少し、牧堰用水の不足を補う必要が
生じました。
静岡県により改良事業が実施されることになり、1930年
(昭和5年)竣工した。1968年(昭和43年)から行われた
導水路工事等により、池の面積が縮小されました。
【大正14年の大岡村鳥瞰全図を現在の地図に古くからの道を赤線で示しました】

・・・殆ど現在残っている道路に符合し、位置・形状・方向など正確な鳥瞰図と感心させられました。

当該鳥瞰図により寿橋より西側の根方街道の浅間神社ないし光長寺方面に道が伸びていることが確認されました
が、現在は上石田インターチェンジにより古い道は埋没してしまい分らなくなってしまいました。

寿橋から東方面の道路は御殿場線踏切の東側で北に曲がっていることが図示されていますが、三島に辿り着くに
はどのルートを歩いたか現在取り調べ中です。乞うご期待。


正直言って、大正時代の絵図がこれほど現代地図に符合するとは思いませんでした。
黄瀬川の古橋

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