農兵節と三島女郎衆

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空を仰げば
 魂(たま)ゆらぎ

 地を踏みゆけば 肉躍る
歴史は古き韮山の

男子(をのこ)の気噴(いぶき)
吹き明(あか)
(つよ)くますぐに
 飾りなく

いや伸びいそぐ龍城の
松の太幹(ふとみき)
とりどりに

生(おほし)立つべき
 日は近し
空を睹(み)
地を践(ふ)みしめよ

あくまで深き
天地(あめつち)

生きの身力(みちから)
(とほ)らしめよ

韮山高校は1873年(明治6年)、韮山代官所の代官で江戸幕府砲術師範であった第36代江川太郎左衛門こと江川坦庵の高弟で足柄県令であった柏木忠俊が、小学校教員育成のため、足柄県韮山支庁(現伊豆の国市江川邸内)に仮研究所が開設し、近隣の本立寺で授業法を伝授したことを起源とする。

1895年に旧制中学、1948年に新制高校となった。現在は普通科と理数科が設置されている。校訓は学祖江川坦庵の座右の銘である「忍」。また、本校では「韮高」とともに「龍城」という名前がしばしば用いられる。

2011年現在、開学以来138年の歴史を持つ県下最古の公立高校であり、日本の高等学校設立年表によると、現存する高等学校としては全国で23番目に古い。

また、韮山高校は「龍城」という異名を持っている。これは室町時代後期から戦国時代にかけて、現在の本校の一部と隣接する龍城山に存在した韮山城の別名『龍城』に由来している。この韮山城は後北条氏の祖である北条早雲によって整備され、後北条氏の伊豆支配の拠点となっていた。(ウィキペディアより抜粋)

韮高生は下駄が似合った

下駄を履かなくなって

下駄の文化が廃れ

足の親指が弱くなった


ゴッホの描く糸杉

糸杉が並ぶ東側に韮高の物理室があった

昭和初期の木造平屋の建物

この建物から日本初のエアカーが誕生した

このことを知る人は少ないだろう

スクラップの二輪エンジンを分解し

パッキンは画用紙を使った

図面も資料も何も無い

本体は二重の精密な木組みに布を張り

メインプロペラは鉄円板とし

周囲から中央部を残し均等に切れ目を入れ角度を付けた

メインプロペラを裸で回転させる万が一の危険性を配慮して

安全のため周囲に円筒と飛び出し防止装置を設置した

みごと人を乗せて浮いたものの

プロペラで前進出来なかった

人が押せば軽く動いた

手彫りの木製プロペラが不出来だったからだ

部員も周囲のものも日本初のエアカー試作実験という

意識は当時全く持っていなかった

ただ連日遅くまでの作業で疲れていた

生徒会や新聞部の評価は極めて低かった

何年か経って物理室は取り壊され

そして忘れ去られ全て埋没してしまった

今、振り返るに

韮高時代の最大の思い出となっている

韮高は未来を描く画用紙と鉛筆が似合っている

神津島と黒曜石
韮高OBがWeb初、新たな切り口で神津島と黒曜石を探ります。
神津島(コウヅシマ)から伊豆半島との位置関係を示す現代の地図である。だいたい推定した航路を赤の点線で描きましたが、石器時代の海の道はどのようなものだったか以下考えて行きたい。
当時の旧石器人は道を構築するという概念は無く、土地を所有するという概念も無く、結婚という概念も無かった筈と想像する。ただ自然界に現存する獣や魚や植物を採取して食べて行き、本能的に親子関係を大切にし子孫を作り育てることに専念していたに違いない。

ただ彼らが初めて神津島の黒曜石を知ってからは、その島の持つ他に類例のない地理的存在観念と黒曜石採取欲を強く感じた瞬間だったかも知れない。海を渡って如何に安全確実に黒曜石を運んだらよいか明確な目的意識が湧き、比較的安全な河口や海の浅瀬で試行錯誤を重ね、当時の採取可能で加工可能の材料で海に浮き移動可能な物体を作るため、おそらく気の遠くなるほどの年月を重ねて黒曜石を手に入れる渡航術を身に付けたものと想像される。複数人の共同作業には当然言語の発達も進んでいった。

神津島から旧石器人が採取した黒曜石(コクヨウセキ)がどのようにして運ばれたのか、神津島付近で黒曜石が現在確認されているのは利島(トシマ)と伊豆の河津(カワヅ)(段間ダンマ遺跡)の二か所である。利島は古代よりミツケノ島(見付けの島)とかアズケノ島(預けの島)とか呼ばれており、海上から見るに円錐状のシンボリックな形状で海の民にとって分かり易い目印だったに違いない。

また、利島の遺跡から45kg黒曜石が発掘されており黒曜石搬送の中継基地的役割をしていたのではと推察される。 (かなり後世のこととなるが大量の和鏡も発見されておりアズケノ島と呼称されて来た)
一方、静岡県賀茂郡河津町見高の段間遺跡(ダンマイセキ)からは250kg以上の神津島の黒曜石が発見されていることから河津が本土側の集積地だったと推定されている。

神津島から河津まで直線距離約60kmだが、立ち寄ったかどうかは別にして現在では神津島から式根島まで約10km、式根島から新島まで約3.5km、新島から利島まで約10km、利島から河津まで約33kmとなる。つまり、島伝いを通過することにより安心が得られ、万が一の備えとして危険が生じたら島に避難したと考えられる。また、殆どの地図に載せられていないが、釣りが好きな人には知られるこの海域に海上に顔を出す岩礁も多く、海退の生じた太古ではもっと多くの岩礁があったかも知れない。

なお、小さな舟の海上見通しは約2〜5km余り、太陽の方向や海流・小島の特徴・陸の匂いなどを熟知した海の民の勘が頼りの航海と想像され、私が思うには箱根山・古富士・大島・三宅島などの連続する新しい火山活動による自然の狼煙が4万年前から1万年前に亘って、海の民にとって方向の目印だったのではと考えている。

そして、神津島から渡海して来た黒曜石は、伊豆半島沿いに海退によって生じた海岸線沿いを筏に黒曜石を乗せ引っ張って歩くか、泳げる程度の距離を保って舟を漕いで行くか彼らは宝物の黒曜石(特に獣皮等の切削)や海の物産などを全国に広めて行ったと考えている。
海上保安庁水路部による神津島周辺の海底調査
上図を参考に示したのは、旧石器時代は寒冷期にあり現在の海面より当時の海面の高さは約100m〜120m低かったとされ旧石器時代の神津島周辺の地形がどうなっていたのか、幾つもの小さい島が海上に顔を出していたのではないか、それとも現在独立して分散している島々が一つに繋がっていた可能性はないのか、海の渡航に関して神津島から伊豆の河津まで現在より数段渡海条件の緩和があったのではと色々空想している。

残念ながら、今から1万年以上前の伊豆半島南東の島々の形状や海の様子に対し科学的研究がされていないが、原始宗教神話の源流の地でもあり海彦の生活の場でもある。当時山彦達(内陸)の羨望の的・黒曜石を生む宝島でもある当該エリアの考古調査解明が切望される。

神津島から利島までの島々の周辺が広範に浅くなっていることから、当時の島の面積はもっと大きかったか繋がっていたことも推察され、そこに旧石器時代の人々が小さな定期的採掘キャンプを築いていたか、ないしは伊豆河津付近に女と子供を守り得る洞窟住居を設け神津島へ定期的に黒曜石を採取しに行ったのではないか、なんらかしらの旧石器人の足跡は海面下に在る筈であり、今後の発掘調査が期待される。

ただし、最も知りたい当時の舟ないしは筏の構造を知り得る木・竹・草・皮などの遺品に遭遇することは繊維質は腐り易いことから見つけ出すことは極めて困難だと憂慮される。ただし、磨製石斧をはじめとする石器など間接証拠が見つかればと期待している


伊豆半島の火山と旧石器人

伊豆半島周辺の火山位置と火山が終息したであろう年代を記した図面である。どうやら20万年前頃には伊豆半島内陸部での噴火が終わり、現在の骨格となる山脈が形成され、河川も形成されて行き植物が繁茂し動物も活動し始めた。特に伊豆半島で注目されるのは河津から下田にかけ火山活動が確認されていないことである。

旧石器人が生活の場と選んだのは伊豆半島南東部だった可能性が高いのではと思う。それも漁撈と塩が摂取しやすい沿岸部辺りを選んだに違いない。仮にこれらの人々が筏を造れる能力を有し筏を操れる技能を持つ海の民であったとするならば、神津島へ渡って旧石器人にとって宝石以上の価値を有する黒曜石を採掘し、魚や獣などの解体(調理)や獣皮の切断などに使い、狩り・漁撈・草木などを切る道具として使い、決して腐らず錆びない鋭利なガラス質の刃物が当時の山の民の耳目に触れない訳は無く、またたく間(約1000年〜1万年単位)で伝播されて行き、山の民にとって到底考えられない海を渡っての上質の産物と聞いては、たちまち神津島黒曜石の虜になった筈である。

「刺身は包丁」と言われている位に、生肉と切れ味は切っても切れない関係とされる。カミソリに匹敵する切れ味、切れなくなったら小さくして使って行く。黒曜石は火山の作った天然ガラスと称されるが、まさに3万5千年前〜1万5千年前の伊豆半島南東岸の海の民は日本初のガラスルネッサンスのポテンシャルを握ったと感じられる。

旧石器時代の遺跡発掘は大きく遅れている。なぜかと言えば、遺跡の大半が土中深くか海中に在る筈で発掘調査が難しく財政面からも予算が付き難いからだと思う。反面、縄文海進の時台地にあった縄文時代の遺跡発掘は急速に進んだ。台地への住宅建築や道路工事にともなう市の先行遺跡調査の後押しもあったからだ。
反面氷河期海退のあった旧石器時代の現場検証は遅々として進まない。3万年以前に渡航能力を有すことなど想像すらできなかった先入観があったことは事実だ。旧石器時代の丸木舟は一艘も見つかっていないし、丸木舟を造ったであろう磨製石斧も僅かしか見つかっていない。細い木を使った筏やカヤックなら発見は困難視される。

ただし、近年の黒曜石分析科学技術調査により日本の黒曜石が日本の広範囲の遺跡から神津島産の黒曜石が混在すると判定され、逆説的に当時伊豆半島南東部の旧石器人が渡海技能を有していたと考えざるを得ない状況になっただけで、陸上海中考古学は遅々として進展していない。

私が思うには日本列島がアジア大陸の海岸線に立地したころ、きっとアジア大陸の東岸の黒潮により暖かい海岸に面する日本半島に旧石器人の多くが集中していた可能性は高く、アジア大陸が日本列島と分離した後でも、後世の例ではあるが五弦の琵琶や神社仏閣の如く大陸では消滅し日本で存在を確認できるように、一見列島という辺鄙の地こそ歴史を留める可能性は高く、今後は日本列島の東の外れの伊豆半島南東エリアの旧石器時代の遺跡発掘調査の重要性を再認識すべきと思われる。

なぜなら、日本の当時の文化的経済的技術的中心地は後世の京都奈良や大阪江戸でも無く、旧石器時代の文化中心の一つは伊豆半島南東エリアに在ったと考える。私達の考える時代のイメージは間違っている公算も高く、未だ遅々と進まぬ石器頼りの歴史検証の在り方を変えなければならないと思う。
さらに旧石器時代の海退だが、いくら進んだとは言え神津島と伊豆半島とは陸続きになることは不能視され、渡航の事実は否定できない。なんらかしらの方法で海を渡って黒曜石を広範囲の山里へ運んだものと思われる。

さて、伊豆半島の火山と旧石器人の関係は渡海の目印となり得たのは、富士山と箱根の火山、三宅島と大島の火山の煙程度に限定され、伊豆半島内陸部での火山は既に終息しており段間遺跡辺りは火山の心配は無く、目印になったのは陸に近づいてからの山並みの形状だったと思われる。ただし、河津段間遺跡周辺の自然湧出する高温源泉から立ち上る湯煙がどの程度だったか、渡航の目印になり得たかどうか知見を持たない。
河津の段間遺跡の地域は見高と称され、当時として高台にあり陸上から相模湾の見晴らしに恵まれ海の様子が一望される。古来より天城火山流を避け得た地域でもあり、飲み水も洞窟も豊富にあった。     
  " 神津島 河津桜に波の寄す "

平成17年に発掘調査が開始された河津の見高・宮林遺跡から3万数千万年前と見られる黒曜石が発掘された。同時に2万8千年前の狩り用落し穴の土坑が見つかり、東伊豆の旧石器人が短期長期に亘り河津見高周辺で生活していたことが裏付けられた。先に記述した段間遺跡は縄文時代であり、縄文人が違う場所で大量の黒曜石を見付けて見高へ運んだのではという疑問が消え、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万5千年前頃)から神津島の黒曜石が発掘されていることと年代も符合することから旧石器人が河津見高周囲を生活圏として遊動していたことが明らかとなりつつある。伊豆半島沿岸で初の旧石器時代の遺跡として今後益々注目されよう。

【旧石器人の生活は侮れない】

私たちは歴史を遡れば遡るほど文明や技術力は未発達であると考え勝ちだが、そうで無い場合が歴史の中に多々見受けられる。
例えば、紀元前3世紀の中国の秦時代(始皇帝)の兵馬庸遺跡から発掘された青銅の剣は錆びておらず光輝いており人々を驚愕させた。ところが、それ以降の時代の銅剣は朽ちて原形をとどめていない。
現代の科学者の調査ではクロムメッキされていたという。
この銅剣の凄さはメッキされていない茎(なかご)剣を握る部分の形状も崩れが無く素材そのものも後世の青銅器とは数段上質の鋳込みがされていたことを意味し、刃部の形状も日本刀に似て狭い刃幅である。後世の青竜刀は強度不足を補うため刃部を広めに取らざるを得なかったことと比較するに次元が違う技術といえる。
なぜか、その古い時代の高い技術が断絶して後世に繋がらなかった。クロムメッキは90年前に発明されたばかりの新しい技術であるのに、紀元前に存在していたのである。

世界で最古の法隆寺の木造建築は、なぜ腐りにくいのか?
木の専門家によれば、釿(ちょうな)による木の表面仕上げにあるという。後世に造った鉄で作った釿(ちょうな)では仕上げがうまくいかず、法隆寺に残されていた古釘から作った釿(ちょうな)でなければ永年保持し得る柱や板は作れないと明言している。古代の匠は既に凄い術を有していたのだ。1千数百年前に作られた鉄の品質が後世の鉄を凌駕しているのだ。江戸・明治・大正・昭和と進むにしたがい木造建築の朽ちる期間が短くなり、人々は住宅ローン苦に喘いでいる。
中国紀元前3世紀・・・秦の始皇帝・兵馬俑の銅剣

世界最古の木造建築・法隆寺

日本の旧石器文化に発見される斧形石器の刃部磨製例は、名実共に「磨製石斧」と呼べる形態を示す器種である。世界の旧石器時代遺跡からの磨製石斧の発見例は少なく、オーストラリアにやや集中して発見されている例は非常に特殊なものである。 

日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3〜4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。つまり現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もある。
黒潮圏の考古学より抜粋(小田静夫著)
紐(動物の腱)


防寒着
ハルシュタット塩坑から発掘さ
れた皮袋
【まさかの技術の出現】
人間が本当に必要とし一事に没頭するならば、時代を超えて、まさかの技術が出現する。

旧石器時代は狩猟に命がかかっていた。こと獣に関する知識は縄文時代や弥生時代を凌ぐものだったに違いない。
捕った獲物は毛皮・肉・骨・内臓など解体し全部利用した筈であり、その知識や経験は漸年蓄積されていった。

当時氷河期で今のシベリア並みの気候とされているので裸での生活は不能視され毛皮の防寒着が作られたと推察される。特に乳幼児の防寒対策は不可欠とされ、幼児が歩行可能となるまで女と子の移動は制限され、女と子を守るため男まで遊動が制限されたかも知れない。お産定住はあったのではと考える。

つまり、毛皮の服や寝具が必要不可欠だったということは、皮の裁断と縫う技術が発達していったと見るのが自然であり、服を作れる能力があるなら、紐(植物の皮、獣の腱)、物入袋、水袋、空気袋、靴、手袋、帽子、敷物、テント、毛皮の寝具など何万年もの歳月をかけて生活用具を考案して行き作っていた可能性が高いと思われる。

現代人は裁縫と聞くと、すぐに針と糸とハサミを連想するが、竹や小枝や骨の先端を黒曜石で尖らし、後部に作った割れ目に紐を引っ掛け縫い上げれば可能なこと、骨の針に小さな穴を穿孔する必要は無い。切断は黒曜石を使った。
また、胃や腸も袋として利用し、獣の皮袋の中に水と食料を入れ焼石を投げ入れ調理した可能性も否定できない。
植物への知識も深まり、獣の皮を人のつばきか植物のタンニンでなめす技術も有していたかも知れないが、全て腐ってしまい物的証拠は残っていないだけだ。
水袋
空気袋
神津島の黒曜石が海を越えて古くは3万5千年前の遺跡から発見された。黒曜石の産地が特定できる現在の科学技術があってこその証明であり縄文時代を遥かに飛び越えて旧石器時代に何らかの渡海技術を有していたことを裏付けるものであり世界三大文明:メソポタミア文明・エジプト文明・黄河文明より遥か昔に日本の地で航海していた事が明らかになったのである。

この三大文明の原初的舟としては、丸木舟では無かった。
エジプトは葦舟、メソポタミア・黄河は皮袋の筏であり、いずれも丸木舟と違って浮力が分散する複数の浮力体を有していることで危険分散という観点からいえば安全性が確保されている点である。

葦は1本の浮力は小さくとも大量に用いれば絶対に沈まない舟となる。獣皮の浮き袋も大量に用いれば万が一どれかが破裂しても問題はない。むしろ丸木舟より安全性は高い。竹か木を組み合わせた筏に浮き袋に装填するだけで良く、労力もかからず軽いので運搬もし易い。

これなら、太い幹を切り倒す事も無く、重い幹を運ぶことも無く、それを二つ割にする必要も無く、中をくり抜く磨製石斧も必要が無く、細い竹や細い木片を獣の腱か丈夫な植物の皮で結べば事足りる。

渡海の前段階として河川での物資輸送があったと仮定すれば、竹の筏も木の舟出現以前に高い確率であり得たと考えている。先端が反り上がり、横木があり、剛性を有す点が竹の筏と木の舟に共通していると思えるからだ。
竹と木と葦(アシorヨシ)と皮の浮き袋の混合体も、舟の発達途上で出現した可能性も捨てきれない。

いずれにせよ、彼らの指導者は万が一の備えとして水袋と救命浮き袋を乗せ、複数台の筏を一斉出航させたかも知れない。
黄河流域の羊皮筏
竹の筏
チグリス・ユーフラテス川の原始的ヨシの筏
●川なので波が小さく多くの物資を四角い筏で運んいる。図の右下には首の無い豚のような生き物が描かれ獣の浮き袋を使用していたことを暗示している。
●左下には大きな舵のようなものが描かれているが、装着方法などの知見は無いが、舵の発生を示唆している。
●上の図面上部奥には長細く数珠繋ぎの浮遊体が描かれているが、どのような物体なのか知見は無い。
●上の図面の手前にオールが二本描かれているが、右手前の筏は突き竿のようなものが描かれている。
現在でも活躍するチチカカ湖の葦舟
現在でも活躍するチチカカ湖の葦舟
左の絵は獣の皮を数人で膨らましている様子が分る。既に獣の頭が落とされ、足の先端は紐で縛られているものと思われる。

毛のある外皮は内側にひっくり返され、植物のタンニンで皮がなめされているかどうかは分らないが、背後の椰子みたいな木々がなんらかしら暗示しているかも知れない。

旧石器時代と一口に言っても4万年前と1万5千年前と技術的進歩や生活環境など大分違っていたと思うので、帆(皮製)や梶(木製)や櫂(木製)の有無や発生時期などは謎のままに終わりそうだが、レリーフには帆が描かれていない。
左の図で面白いのは一人が浮き袋に乗っているか体側の棒に浮き袋を引っ掛けドルフィンキックかバタ足で浮き袋筏を推し進めている様子が描かれている。

海中に居る人物が仲間なのか奴隷なのか分らない。筏に乗っているのは押している人と対面しているので、長いオールを漕いでいると思う。先端が輪っか状のオールみたいなものが二本描かれているので前に二人いるものと思われる。
先端が板状で無く輪っか状の方が板を削る必要が無く、細い樹木の先端を火に炙って丸め網状(膜状)の物を輪っかに被せたかも知れない。筏下部側面の模様は皮製浮き袋と見られる。

石板に彫刻し得る能力があったから、後世の人々が紀元前の筏の存在や構造概略が把握されたのであり、それ以前に遡っては筏や渡海術が無かったと断言は出来ない。原初的な海への第一歩は、浮き袋を携えた浅瀬の遊泳だったことを左の絵から感じられる。
【伊豆諸島の海流と渡航の立地条件を考える】
縄文時代さえ考古するのに闇の中、旧石器を探るのは闇の闇の中、空想するしかない。

次に、伊豆半島の南東部に位置する伊豆諸島の海流を調べてみた。言うまでも無く旧石器時代の潮流を知りたいところだが、世界中の誰でもデータは持っていない。

したがって、現在の潮流をたたき台として渡海の難易度を探りたいと考えた。
右図は平成23年8月某日Web公示された海洋短波レーダー局により観測された海流図である。もちろん海流は日々刻々と変化し潮汐により変化するので参考にとどめたい。

ここで、指摘したかったのは西から東へ時速約7kmで流れる黒潮本流は北から南へ蛇行し年々ルートを変えるが、大体相模湾沖の黒潮ルートは八丈島と御蔵島や三宅島間を通ることが多く、例外はあっても神津島以北の島々には黒潮本流が流れることは滅多に無いことが現在では知られている。

黒潮の支流や逆流が神津島から利島に至る海域は、例えば右図のように海流は北上するか逆流潮により西進・西南進する場合があり、海流は複雑に変化するものの、八丈島から伊豆半島へ黒潮本流を横断して渡海する場合とくらべ、伊豆半島から神津島への渡海の難易度は低いものと推察される。さらに利島以北の海流の速度は低減するものと思われる。

ただし、駿河湾と相模湾の沖合の黒潮本流は鞭のように蛇行変化が大きく、それにともなう時々刻々黒潮支流の向き変化や速さは、当時の経験則での海流予測は不能視されよう。

仮に河津から出発して利島に向かうとし、北へ海流が1〜2ノットで流れていたと仮定するならば、南東方向45°斜めに横断したことが予測されるが漕ぐ労力を要する。昼間の渡航が原則だった筈で、採掘採集作業もあるので1日で往復できない場合は、採掘現場で泊まった可能性は高い。

帰りは、同じ条件の海流とすれば、西に向けて出港したと思われるが、風向きや海流の加減で寄港地変更もあった可能性も高い。利島を出港地とするならば、真西0°〜北西80°位まで航海誤差が許される立地条件と謂える。

いずれにせよ、海流が北上している場合はかなり潮流が速くとも相模湾岸方向に流される訳だから、南方へ流され黒潮本流に流される事にくらべて命にかかわる心配は少なかったと類推するところである。
【渡海のスピードを考える】
海における浮き袋筏は、縄文時代の丸木舟より波に対する安定性は良いが、海水の抵抗が高く、風の抵抗も大きく受け易いことから人力により、どの位スピードが出せれば、空が明るい内に島に辿りつけるのだろうか考えてみた。
水抵抗の小さいシーカヤックの平均速度が時速5km内外と考えれば河津見高から利島まで海退を考慮して約30kmとして約6時間で到着する。海流変化や風向き変化を考慮しても10時間かかると見た方が無難かも知れない。
概ね6時間から10時間で利島に到着可能を可とするならば、浮き袋筏は時速5km〜時速7kmのスピードを出さなければならない。当然ながら、シーカヤック1人に対し筏1人では海水抵抗だけでも勝ち目が無い。どんな櫂を使い何人で漕いたら実測として時速5km出せるのだろうか?計算が出来る筈がない。筏の構造が闇の中であり、抵抗値が出せないからだ。
ただ、言えることは向い合う潮の流れを1〜2ノットと仮定するならば少なくとも最低時速7km出さなくてはならない。
そのためには、当該筏の構造は幅広では抵抗損失が大きくなり幅は狭く、漕ぐ人数を増やさなければならない場合は縦長の構造にしなければならない。
筏は極力軽くし、船首船尾は水の抵抗を減らす三角や流線形にしたい。そのため、船首と船尾には竹や葦などで造作する。壊れても良い。なぜなら本体は沈まないからだ。
伊豆半島と利島から神津島までの位置関係図
【渡海ルートを考える】
左の図はGoogle earthを切り取り字と絵を挿入した。Googleearthのとても便利なところは、画面をクリックすると海抜や海深の値を示してくれることであり利島から新島から神津島までの島間の海深数値を見て行くと-100mより浅い部分が多いことが分る。
繋がっていたかどうかは別にして、利島から神津島までの距離は約40kmある。また、伊豆半島の伊東市南部から下田まで、当時は海退により神子元島(みこもとじま)は陸続きと見られ同じく約40kmある。
つまり、一片を約40kmの並行四辺形内が渡海ルートと推定される訳で、この間の黒潮支流の向きやスピードや風向きにより出発地や到着地を変えていた可能性がある。

例えば、出航日が矢印のように相模湾に流れ込む北上する海流と読んだ場合、河津見高方面からの出航では、まともに海流とぶつかり合う形となり、進むに労力を要し、場合によったら大島の方へ流されてしまう恐れもある。

したがって、海流が北上と観た場合は、神子元島(みこもとじま)辺りから出航したことも考えられる。当初の操船技術は相当アバウトだったと想像されるので横に約40kmの誤差が許され北上する海流を横切る形で前進した方が無理が無い白の三角形の渡海ルートを選んだと推測する。流されても利島に辿り着けば良い。

また、帰りは神津島から島を右に見ながら北上する海流に乗り利島に一旦行き、そこから真西から北北西まで横に約40kmの誤差が許される赤の三角形内の渡航ルートをとったのではないかと思われる。

彼らが恐れていたのは絶対に南へ流されない事の一点であった筈で太陽の方向に流されないことだけを守った。
そして、目的地に近づき浅瀬の移動は突き竿を使用し、岩礁にぶつかりそうになったら竿で突いて避けたと考える。

陸揚げ後は、伊豆半島の南北の移動は海退によって生じた水平な海岸線が続き、現在の途切れ途切れの海岸線と違い南北の移動は容易(筏を引っ張って徒歩)だったと思われ渡河や海岸線が没した場合は筏に乗ったかも知れない。

梶の有無については分らないが、潮流の速さが増し方向が変わるなど不測の事態を配慮して、仮に二隻の筏が同じ方向に流され操縦不能となった場合、一隻の筏を放棄してメインの筏を補助メンバーが泳いで押し、方向を補正するなど緊急手段もあったかも知れない。黒潮の水温は温かい。

この地域の海の民は同じ目的を共有し従来の単独行動から協同行動に脱皮して行ったに違いない。そして、意思疎通し合える複雑多岐にわたる古代言語を獲得して行った。
高台へ登れば双方の島影は良く見通せるものの、海上に出れば見通しが利かなくなる。島へ渡る時の目標は太陽と三宅島(大島)の噴煙だったのではないか?もちろん毎年噴火している訳は無かったろうが、かなりの頻度で噴火し、一度噴火すると長期間噴煙を上げ続けていたに違いない。

伊豆半島に向かう時は太陽を背にして大島ないしは富士山・箱根が噴火した際は噴煙が目印に方角を判断したのではと思われる。

黒潮本流から離れ出発点から到達点まで約30kmの行程で横に約40kmの誤差が許される環境だったことは彼らにとり幸運だったに違いない。そして定期的渡航が舟の改造につながり渡航技術の進歩になって行く。

仮に利島から神津島まで複数の島々が繋がっていたとするならば、海流の流れに応じて東周りするか西回りにするか判断し利島に行き、利島から伊豆半島に向け出航したと思われる。熱海伊豆山の走り湯は昔勢いがあり遠い海上から湯煙が確認されたと伝えられ、当時河津町の湯煙はどの程度だったか知りたいところである。

神津島の周辺環境を探る
黒曜石の採れる神津島の西直近に恩馳島(おんばせじま)があり東隣に式根島(しきねじま)がある。

恩馳島は別名・アシカ島とも呼び、絶滅危惧種とされているニホンアシカの生息地(繁殖地)と知られている。同島は神津島と同じく黒曜石も採れることが確認されている。
加えて、式根島もニホンアシカの繁殖地だったことが専門家(伊藤1995) により確認されている。

そのニホンアシカの日本での繁殖地とはっきり確認されているのは、礼文島、久六島、竹島、式根島、恩馳島の五島であり、その内二島が神津島の両隣りに存在していたことになる。
今の海面より100m〜120m低かったことを勘案すれば、島続きだっことも考えられ、神々が集ったとされる神津島はニホンアシカの集う場所でもあったことになる。

ニホンアシカは、日本沿岸で繁殖する唯一のアシカ科動物で、アザラシやトド、オットセイのように冬に回遊してくるのではなく、周年生息していた。大きな回遊は行わず、生息環境として岩礁や海蝕洞があり、繁殖活動は繁殖期に限られた繁殖場でのみ行う特性であった。一雄多雌型で、オスは十数頭のメスとハレムを形成し、交尾期は5-6月で、出産は通常1回に1頭であった。

アシカの生息地だったということは、主要食材のイカやタコが豊富に生息していた海域だった筈で、天敵のシャチやサメの出没の比較的少ない安全な海域だったに違いない。
昭和初期頃までアシカ猟が行われていた模様で、今ではアシカの姿を見られなくなってしまった。

旧石器人がアシカを先に発見したのか黒曜石が先だったかは闇の中だが、アシカの油や皮などを採取していた可能性は高いと思われる。
筏の浮き袋として、油を皮の表面に塗布し、摩擦抵抗を減らす工夫もしたのかも知れない。
ニホンアシカ
恩馳島(おんばせじま)

河津段間(だんま)遺跡付近の環境を考える
河津(かわづ)は暖流の影響で現在の年平均気温が16〜17度と温かい。旧石器時代は今より7度内外寒いとされるので年平均10度内外と寒いが内陸部の気温に比べると温かさが数段違う。
黒潮の魚影は濃く、伊勢海老・カニなど甲殻類も磯近くに生息し、サザエ・アワビ・二枚貝・海藻・イカ・タコも豊富に採れたに違いない。
山菜や木の実も自生し山野には小動物の餌場になっていた筈で、最近2万8000年前ごろの土坑跡(落し穴)が発見されて動物の生息が裏付けされている。
もう一つ河津付近には、今井浜温泉・稲取温泉・熱川温泉の源泉がある。今でも源泉の温度は高いところで100℃内外の所もあり白い噴煙を上げている。
土器の無い時代は煮炊きは出来ないというのが定説であるが、私は温泉熱を利用して彼らは煮炊きしていたのではと考えている。
例えば、獣皮の袋か簡単な竹籠の中にエビや二枚貝を入れ温泉に投げ入れ、エビの色が変わったり貝が開いたら取り出せば良いからだ。土器は不要だ。
そして、竹を割った食器か葉っぱや貝の皿の上に料理を置いて食べていたと思えてならないのだ。
彼らは有るものを採取し在るものを利用していた。
女達や子供達は間食として、山野に自生する小動物や小鳥の食する山菜や木の実を親兄弟からの口伝か自らの体験から熟知して採取し、食していた可能性もある。
アク抜きを要する山菜や木の実を食していた可能性は低いが、もしかすると炭酸泉の源泉を探し出していたならばアク抜きをして食していたかも知れない。
サザエの壺焼き、河津川の小魚の串刺し焼きも・・・etc

日本ザルが温泉に入浴することが知られている。河津町付近の源泉の温度は40℃〜100℃まで幅広く河津の旧石器人も自噴温泉に入浴していた可能性は高いと思われる。

私は当時の赤ちゃんのオムツを考えているのだが、今のところ良い草案が浮かばない。出産時の産湯は温泉の可能性も出て来た。入浴場は石を積み上げたりして簡単に作れる。いくら隙間から湯がこぼれ出ても構わない。なにせ天然のかけ流しの湯量は、それこそ無尽蔵だからである。

いずれにせよ、河津の旧石器人の食事は肉食一辺倒ではなく、縄文時代草創期程度の食事内容は摂っていたと推察され、生活程度も温泉の恩恵から思うほど不潔な生活では無かったのではと類推する。

考古学ばかりでなく理工系研究室に籠って研究していると、外部接触が少なくなり専門的分野に傾注することから近視眼的思考に陥り易く、他分野の指摘により新たな見方ができ壁を乗り越えることが多々あると聞く。土器が無くとも煮炊きはできるのである。丸木舟が無くとも渡海できるのである。

土器が無かった旧石器時代は粗末な石器でナウマンゾウやオオツノシカを採取し獣肉を食し、定住せず土器を作らず煮炊きは縄文時代から始まったと学生時代学んだものだ。煮炊きの無い時代と疑わないという説を頭に置くのも良いが、もう一方で現代の我々と知能指数が余り変わりないホモサピエンスの知恵や技能を見直し、より複眼的姿勢で考古することも必要だと思われる。

神津島の黒曜石は、旧石器時代研究に波紋を投げかけた。伊豆半島における旧石器時代遺跡発掘が今後活発になることを祈る。同時に神津島と伊豆半島東部一帯の市町村が日本最古とも言える旧石器時代遺跡発掘者達への応援とともに温泉・巨樹・山草・木の実・魚介類・筏・黒曜石・遺跡・神社と歴史探訪を融合させた、より深みのあるロマン溢れる観光の再構築が加速することを祈る。
旧石器時代の海の民の子孫の足跡を考える

約3万5000年前に神津島と伊豆半島間における渡航の事実を色々考察して来たが、その後の子孫の足跡を考えてみたい。日本が漢字を取り入れた以降の書物には全く記録には残されていない長期に亘る縄文時代のことではあるが、神津島の黒曜石は海の民の子孫の足跡を雄弁に語ってくれる。

縄文時代草創期には、長野県産の黒曜石と箱根産黒曜石が半々に遺跡から発掘され、神津島の黒曜石は微少にとどまっていたが、約2万2000年前ごろの神奈川県相模原市橋本遺跡から約30%が神津島の黒曜石が発掘されており、縄文前期後半から神津島の黒曜石は漸増して行き、縄文中期には静岡県東部から南関東まで黒曜石分析の割合は80%内外を占めるところとなり、その後北関東エリアに至るまで範囲を広めているなど、海の民の子孫の活躍を伝えている。

縄文社会全体が衰退期に入る縄文晩期になると遺跡数は減って行くが、この間、海の民の渡航術や地理的知識の発展や資力の蓄積に相俟って造船技術の発達や造船に関する専門集団の発生などが考えられるところであり、黒潮本流を乗り越えたはるか南に位置する八丈島と青ヶ島の存在も知り得る存在となり神話の中に八丈島と青ヶ島の名を残している。

伊豆諸島は十の島だったことを神話は語っている。・・・三嶋大明神が作った順番は一番目の島は「はじめの島」(初島)、二番目の島は神が集まり詮議した島なので「神あつめ島」(神津島)、三番目は大きいので「大島」、四番目は潮の泡で焼き白いので「あたら島」(新島)、五番目は家が三つ並ぶ姿に似ているので「三宅島」、六番目は神の倉にするために「御倉島」(御蔵島)、七番目は遥か燠にあるので「おきの島」(八丈島)、八番目は「小島」、九番目は島の形が「王の鼻」に似ているので「おうこ島」(青ヶ島)、十番目の島は「としま」(利島)とある。

作った方法は、島の上に大に穴を掘り、さきのごとく龍神の海の底より大なる石どもを巻き上げて、水火の雷これを焼き給へば、石も焼かれて湯になり、地の底をむくりて汀(なぎさ)へさっと落ちければ、汀の石にも火付きて燃ゆれば、潮沸き返り、燠の波うちかけうちかけしければ、即ち岩となり、土となる。さるほどに本の島三分の二ばかり焼き出しぬとある。つまり、海上火山により島が次々に形成され10個の孤立した島々が連なり、神々の海上の道があったことを暗示した物語となっている。

島の出来た順番の信ぴょう性は敢えて問わないものの、新島と利島が独立した島としていることから、縄文海退以後の口伝が混ざり合い、漢字伝来以降に口伝を筆記したと思えるので、縄文時代・弥生時代・古墳時代の人々が伝承して行く中で私見や誤謬が混ざり合ったことは否定しえないものの、島々の名前からも伊豆諸島の島々であることは間違い無い所である。

問題は、太平洋の黒瀬川と呼称される黒潮海流は、江戸時代の帆船で渡るには難所中の難所とされ、伊豆半島から約270km離れた点のような青ヶ島への渡航は羅針盤も無い時代にどのように渡海し得たか疑問である。黒潮をどのように横切り、渡航距離があればあるほど操船誤差は許されなくなる訳で神津島への渡航とは雲泥の差と断言できる。いつごろ黒潮横断が可能になったか知りたいところである。

神話に渡航のリーダーは見目(みるめ)とある。見目(みるめ)は龍神の化身(娘)とされ現在、三島市佐野に見目(みるめ)神社が存在し樹齢約550年のスダジイがあるが、かつては高台に建てられていたが、秀吉の小田原城攻めの折り戦火で焼失し現在の場所に遷宮されたと伝えられる。見目(みるめ)は三嶋大明神の元遷宮先だった伊豆下田の白浜神社に祀られている神である。

名前が見目(みるめ)とあるからには、相当遠目が利いたと解したいが、青ヶ島を肉眼で確認することは不能視される。伊豆は亀卜で古来から有名な地とされ、平安初期の『延喜式』「臨時祭式」には、「卜部は三国の卜術優長なる者を取る」として、「伊豆五人、壱岐五人、対馬十人」をあげている。占事の優長な者として三国の卜部が、いかに重用せられていたかが知られよう。注目に値するのは、三国と表現されているが、いずれも本州から離れた島々であり海人と称される人々が選ばれている点である。もう一つ着目すべきは平安期の書物であり、当時は何よりも位を重視し筆頭に位の高い順に記したと推察される。

古代における卜部は祭りの最重要な位置とされ、それらの卜術優長な者として伊豆・壱岐・津島の海人が選ばれていたということは、背景に優れた渡航術を有し諸外国との通商を介し、歴史知識と地理的知識に優れ、諸外国の最新情報の把握に優れ、気象自然現象分析に優れ、独自の暦と季節的時系列的知識を把握し得た海人の文化が重用されたとみられ、その祖を見目(みるめ)神と私は考えたい。国と呼ばれるには、それ相応の国力と文化を有していたと考えられ、伊豆・壱岐・津島は渡航を通して、かなり緊密な文化交流があったことを延喜式や神話は暗示しているのかも知れない。そして、天皇の崇拝する神々と系統の異なる龍神の化身の見目(みるめ)神は歴史の表舞台から忘れ去られていった。

三嶋神社の歴史と伊豆半島

神津島の黒曜石は3万5000年前の旧石器人が渡海技術を有していたことを私達に伝えてくれた。
この渡海技術は縄文時代・弥生時代・古墳時代へと連綿と伝承され進化して行き、奈良平安時代には、南伊豆や伊豆諸島は東西・南北の交通の要衝で津(港)のある場所として古くから都人(みやこびと)に認識されていた。
地理的条件に相俟って、永年の渡海技術と知識の蓄積があればこその成り立ちと言えよう。

当時は文字が無かった。何万年も口伝により祖先の事が語られ続け、やがて祖先が神に昇格し海上交通にかかわる氏族の守護神として崇拝されて行く。
天皇の御世に他国から唐突に渡って来た神では無く、そんな浅い歴史では無く何万年もの日本太平洋沿岸の歴史背景があると考える方が自然である。
天皇の御世に、国家的要請により海上交通の要衝だった伊豆から和多志(わたし=渡し)大神(おおかみ)を崇拝する海の民の子孫代表が召請され大陸航海の任務に就いたと理解したい。

静岡大学教授の原秀三郎氏も【三島木綿も三島神とともに朝鮮半島に渡る】に、三嶋神は、伊豆国から海を越えて朝鮮半島に渡り、大任を終えて再び戻ってきた時の話が伝承化され『伊予国風土記』逸文につながり、また、『韓風の神招ぎをしよう』という<からをぎ>につながるものと考えられる。これならば、奈良・平安京の宮中神楽<からをぎ>では、何故にわざわざ遠く伊豆国の三島木綿(みしまゆふ)を使かわなければならなかったのかよく判る。と記している。

『伊予国風土記』に御島(みしま)に坐す神の御名は大山積神、一名(またのな)は和多志(わたし)大神なり。
とある。
神津島と海の道のページを綴って来た私にとって、御島(みしま)とは神々が集う神津島をはじめとする伊豆諸島と伊豆半島南東部を指し、和多志(わたし)大神とは渡しの大神を指し、具体的には3万5000年前から渡海して黒曜石を運んだ旧石器人の先駆的祖先の崇拝神、海の神として和多志大神の御名がピタリと符合する。

三嶋大社の由緒が三宅島→下田白浜→伊豆国田京→三島へと遷宮された軌跡とも純粋に符合する。

御祭神は大山祇命[おおやまつみのみこと]、積羽八重事代主神[つみはやえことしろぬしのかみ]、御二柱の神を総じて三嶋大明神[みしまだいみょうじん]と称しています。
大山祇命は山森農産の守護神、また事代主神は俗に恵比寿様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬をうけます。(三嶋大社HPより抜粋)

大山積神と大山祇命は同神と理解され、山林農産の守護神とありますが、本来海の神(渡しの神)でもありましたが事代主神に海事を継承せしめたものと思われる。
これまで伊豆半島の歴史は軽視され、津の国は摂津の国と誤訳され、御島は伊予三島と誤訳され、三嶋神は韓国の神などとする見方がされて来ましたが、神津島の黒曜石は旧石器時代を読み解く端緒になったばかりではなく、魏志倭人伝、風土記、古事記、日本書紀など机上学問解釈による定説をも覆す転機と考えられる。

これまで謎とされて来た三宅島をはじめとする伊豆諸島に残された古代から中世にかけて150枚以上の和鏡も朝廷と和多志(わたし)大神との急接近の証しと理解され、けっして地方の鏡信仰では無く、古代において既に海上交易・海外交渉の重要な役割を担っていたことを示す残影と理解したい。
神楽舞には三島木綿(みしまゆふ)

三嶋大社本殿
三宅島・利島などの和鏡

何時頃から伊豆半島南東部に旧石器人が住みつくようになったか見当がつかないが、3万5000年前には活動していたことが間接的に証明された。伊豆大島の噴火が3万年前からとされるので、少なくとも彼らの子孫は島が誕生するのを目撃している。神話の中で島が生まれる順番が伝承されているということは、殆どの伊豆諸島は火山が終息している筈だから相当前から祖先が住んでいた可能性もある。しかし
利島と神津島などが別々の島としていることから縄文海進以降の口伝伝承が混ざり合っていることも垣間見られ、神話とは口伝故に縄文・弥生・古墳時代の事象が混濁して伝わっていることが理解できる。

さて、黒曜石が広範囲に本土で発掘されるということは、海彦側と山彦側相互に何らかのコミュニケーションが必要だと思われる。3万年前以前に渡航技能を有していたとは誰でも考えた人はいなかった筈である。そんなことを記している歴史書にも接したことも無い。兄弟間だったら話は通ずるかも知れないが、日本のあちこちから神津島の黒曜石が出て来るとなると、相当言語形態が確立していなければ物資の遣り取りなど成立する筈がないと私は思う。旧石器人は北京原人やジャワ原人ではないのだ。

私が今回考えた原初的渡海方法として葦船ないしは浮き袋筏を提示したが、丸木舟ないしは伝馬船に近い舟だったかも知れないものの余りにも旧石器時代の遺物が少なく少し控えめに提案したものである。
いずれにせよ、原初的渡航技術と原初的交易を持つ旧石器人は、他言語を跳ね返す位の言語の確立が国土に広域的に定着していた可能性は高い。
渡航技術も100年〜1000年単位で進んで行き、帆や梶が考案され巨樹を利用した長距離航行可能段階となれば、かなり以前より朝鮮半島、カムチャッカ半島、中国大陸、フィリピン、インドネシア方面などへの渡航していたことも否めず、他言語学習に相俟って交易などを通して、情報交流していた可能性もある。「電流は電圧の高い方から低い方に流れる」の如く文明(言語)も同様に低い方に流れて行く。

ギリシャに日本神話に酷似した神話が存在するとされるが、ひょっとすると日本神話が通商相手を介してギリシャに伝わったとする考え方もあり得る。なぜならギリシャ文明はずっと後世に出現するからだ。
ただ、ギリシャは日本に存在しない文字という文化を持ち、後々の人々に歴史を伝えられた違いがある。
新羅・百済・高句麗は日本に進出していないが、日本は朝鮮半島に任那を作っている。背景に海運力が無ければ出来ない話である。百済との歩調が合わず敗戦につながった白村港の海戦も、4万人を超える兵力を運ぶ船数が日本になければ、朝廷も参戦しようとの決断もできなかった筈である。
国内においては相模湾、房総半島、伊勢湾、瀬戸内海、九州、山陰などへ和多志(わたし)大神を崇拝する海の民の子孫が勢力を広げて行き、地方の豪族としての地歩を固めていったと推察される。

中国に隋・唐などの新興帝国などへの警戒が軋轢となってくる時代に突入すると、日本の朝廷は外交交渉が喫緊の課題となり、必然的に海運力を有する地方豪族の協力が必要不可欠のものとされ、地方海運豪族が崇拝する和多志(わたし)大神と朝廷との急接近の流れに繋がって行く。
記紀には欠落しているが、宮中神楽<からをぎ>に残されている。その中に「三島木綿(みしまゆふ)」が唄われ、爾来、伊豆国三嶋において古代より三島木綿が織られ、宮廷をはじめ全国の神社へ奉納されている。機が織られた地名も残る。現在の八反畑(はったばた)は元々三島木綿が織られた場所と伝承され機端(はったばた=機を織る場所)が転訛して八反畑(はったばた)になったと伝えられる。けっして韓国からの輸入ではないのだ。外交の大任を終え帰ってきた三嶋神を讃え宮中神楽の衣装は韓風にしようと唄い、三島木綿(みしまゆふ)を舞の正装としようと唄い続けられて来たもので大山積神またの名は和多志(わたし)大神は朝鮮半島からの渡来神では無く、悠久の歴史を刻んできた日本の海の民が崇拝する和国の神である。そうでなければ外国への渡海命令に対し海の民(豪族)は断じて動かない。

静岡県三島市は箱根西麓に旧石器時代から縄文時代まで数多くの遺跡を有し、文化的に三島木綿(みしまゆふ)の他にも全国的に知られるものとして三嶋暦(みしまごよみ)や三嶋菅笠(みしますげがさ)など数多くの独自の文化民芸を有している。軽々に新町名に変えるべき地域ではないと私は思う。
さらに三島風穴(みしまふうけつ)など富士山の三島溶岩流(みしまようがんりゅう)からできた1万4000年前からの歴史を読み取れる可能性の高い自然遺産(鍾乳石等)を埋没してしまう愚を犯してはならない。

神津島の黒曜石は、東北の三大丸山遺跡より遥かに遡る旧石器時代に高度文化を有する海の民が居たことを示し歴史の常識を覆すチャンスを与えてくれた。これまで、島国の日本に外から文明が入って来たという先入観に囚われた史観から脱却し、我々の祖先は3万5000年前から、かなり高度な言語と石器や土器が無くとも渡海可能な高度の技術を有していたことを踏まえ再出発しなければならない。
神話も大和地方が文化の先進地区という先入観念から、伊豆の国生み神話は大和地方の模倣とされて来たが、どっこい飛鳥時代より3万年以上前に伊豆の辺鄙な地域に海洋文化が芽生えていたのだ。
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